Talk #02ガラパゴスで、人間たちは考える。

鼎談 2017.8.25 写真家/生物学者/デザイナー

ガラパゴスへと旅立ったロケ隊のメンバー。7日目の撮影を終えた船上で、再び鼎談を行いました。実際にガラパゴスを目の当たりにして感じたこと、自然や進化のこと、人間のこと、そして幸せのこと。それぞれの知識や感動を共有しながら、多岐にわたって思考を巡らせました。

生物学の視点から、
ガラパゴスを見る。

デザイナー {ガラパゴス}に来て、7日目ですね。生物学者として、ガラパゴスはどんな印象ですか。

生物学者 ここは生物学的には聖地なので、舞い上がっています。聖地というのは、まず19世紀に、ダーウィンがここで{進化論}を思いついたということ。また、20世紀から21世紀にかけても、ガラパゴスの周辺で生物学的に大きな出来事がいくつかありました。そういった意味で、たくさんの聖地がここに集合している感じがあります。

デザイナー 進化論以外には、どんなことが発見されたのですか。

生物学者 1977年に、ガラパゴス諸島沖の深海2500mの海底で{海底火山}が発見されました。これは海洋地質学者が予想したとおりです。ところが、その海底火山で誰も想像しなかった謎の生物、通称{ジャイアント・チューブワーム}(以下チューブワーム)が発見されて、それは生物学においては、{地動説}の提唱に匹敵する発見だったんです。

チューブワームは動物です。でも、物を食べない植物的な生活をしています。植物は、光合成をして栄養を作りますよね。チューブワームは、海底火山のエネルギーを使って生きているんです。われわれ人間は植物を食べたり、植物を食べる動物を食べたりしているので、植物、ひいては太陽に依存しています。われわれの生態系の食物連鎖は、太陽に始まっているんです。でも、チューブワームの生態系は海底火山に始まっている。生命の起源も、海底火山で始まったと考えられています。海底火山は地球以外にもあるので、そこにも生き物がいるかもしれないという話につながっていくんです。チューブワームの仲間は今、地球上のあちこちで見つかっていますが、最初に見つかった場所がガラパゴスだったというのは象徴的です。

それから1993年に、もうひとつ大きな発見がありました。このあたりの海は窒素やリンに富んでいるので、本来ならば食物連鎖が活発なはずなのですが、ガラパゴス諸島から少し離れると、生物が全くいない砂漠なんですよ。それは長い間、海洋生態学の謎でした。その謎を解く鍵が見つかったんです。人間の体には、ごく微量にですが鉄分が必要です。ガラパゴス諸島周辺には、火山などから鉄分が供給されているのですが、少し離れると供給されない。そこで、実際に海に鉄をまいてみると、急激に植物プランクトンが増えたんです。つまり、人体と同じように、海にとっても鉄分が重要で、これは、食糧危機や水産業の未来を考える上でも大きな発見です。

デザイナー なるほど。とても興味深い話ですね。

自然とは、
ぴんと張りが
ある感じのこと。

デザイナー 写真家は、地球上のあらゆるところに行かれていますが、ガラパゴスではどんなことを感じましたか。

写真家 今日は特に、頭の中が空っぽになるような体験でした。全く人が介在していない世界です。昔から見たかったものが、ここにあった。360度、見えるものすべてがエネルギーを持った、生命の根源とでもいうような。それは、地球がもともと持っている力なのだろうと思うのですが、僕らが住んでいる世界ではそれを感じることが非常に難しくなっていると思います。以前の鼎談で魂の話がありましたが、まさに魂を揺さぶるような、言葉で表現するのは難しいのですが、初めての経験をした感じがします。

デザイナー これは非常に直感的になのですが、ぴんと張りがあるという感じがするんですよね。調和ではなくて、ある種の緊張。張りのバランスが崩れると、新たな動揺が生まれるのかもしれませんが、今はぴんと張った状態で保たれているという。最初の島から移動するにつれて、だんだんその張りの度合いが増してきた感じがします。僕は今回、その張りが、自然というものなのかなと思いました。

写真家 ここに来て、僕が一番感じるのは美しいということです。近景も遠景もすべて。色や形や、火山の中にまた小さな火山がある、それも全部含めて、非常に美しいと思います。言葉ではそうとしか言えない。そういう活発なエネルギーが、人が介在すると崩れていくように感じます。

デザイナー {ガラパゴスコバネウ}の巣を見て、何とも言えない気持ちになりました。糞が白く、漆喰で塗られたように堆積していて、その真ん中に、親鳥が持ってきた枯れた海藻が堆積されていて。その中にひながいて、親鳥がのんきな感じでぽんといる。糞を見ても、不思議と汚いという感じがしないんですよね。排泄物という概念がなくて、自然のサイクルの中にあるから、汚く見えないということなのかもしれません。人間って、掃除をするでしょう。それってどういうことだと思います?動物は掃除をしませんよね。

生物学者 さっきの張りという話にもつながると思うんですが、人間はある状態を維持したがるんですよね。きれいであったら、きれいという状態を維持したがる。自然界は放っておけば壊れます。この山々を美しいとおっしゃいましたが、これは重力的には不安定で、いつか必ず壊れる形です。人間はそれを壊さないように、手を加えてしまうじゃないですか。

デザイナー それこそ、本質的な意味で壊すことになる感じがします。流れを止めてしまうという意味で。

生物学者 そうですね。都市と生態系って似ているんですよ。どちらも究極的な最終解はないんです。でも、とりあえずの安定解のひとつは、冗長性を増すことです。都市に電車の線路がいくつもあって、そのどれかがなくなっても大丈夫なように、生態系もどれかひとつの種が消えたところで、あまり影響を受けない。最初のサンタ・クルス島は古いだけあって、生態系に冗長性があって、かなり爛熟している印象を受けました。フェルナンディナ島やイサベラ島はまだ若くて、冗長性がない。でもその分、緊張感がありますよね。

デザイナー 自然の理(ことわり)というのは、冗長度の少ないところに露出している緊張感みたいなものとして感じ取れますね。若い島では、それがわかりやすく見えました。写真家に砂の写真を撮ってもらったのですが、その砂は若いというか粒が粗くて、手ですくってみると、貝や動物の骨、溶岩、珊瑚などの破片などでできているのがよくわかる。ああ、砂というのは、火山の噴火に始まって、生命が育まれて、生物たちの生き死にが無数に繰り返される中ででき上がってくるものなんだなあと。それが海の波で揉まれて、どんどん小さな砂粒になる。若い砂を見ると、その島の生態系が、砂の組成バランスに反映されているのがはっきり見える。そのシンプルさに打たれたというか、張りを感じたんです。

写真家 ビビッドな感じですよね。使い古された言葉ですが、まさにいきいきとしているという言葉の語源や意味を、そのまま見ているような気がしました。

ガラパゴスと人間の
関係から考える。

デザイナー {オートポイエーシス}という考え方があります。日本語では自己組織化と言うんですが、誰かが意図的にそのようにしたのではなくて、自発的にそうなってしまっているという考え方です。デザインにおいても、この考え方はとても重要で、おのずとそうなってしまった形を探し当てていくようなものの見方や感じ方が大事になってきています。ガラパゴスはある意味、オートポイエーシスの典型だと思います。オートポイエーシスの対極は人為ですから、人為が介入することによって、非常にものが歪んでいくんですね。

ガラパゴスに来てみて感じたのは、ガラパゴスも一度、壊れかけたんだということです。全く人が存在しなかった時代が長くあって、今でも人為の介入が非常に少ない場所ではありますが、それでも人がやってきた。エクアドル政府も、ひとときは入植者を斡旋して農業などが行われたこともあります。しかしながらこの自然の貴重さに気付いて、1970年代からは入植者を制限して、自然を復元しようとしています。でも、そういう意図もまた人為であって、ありのままの状態を人為的に復元するという、矛盾した状況になっている。ガラパゴスも完全無欠ではないと感じました。でも、そういう人間の右往左往している状況とは関係ない次元で、超然と自然は張りを失っておらずその痕跡が色濃く残っていた。それは感じとることができたと思います。

生物学者 ガラパゴスで一番大事なのは、やはり進化論だと思います。ただみんな進化論を、間違って理解している。まず、進化論で一番の禁じ手は「なぜ(WHY)」という質問です。なぜこの生物はここにいるんですか、なぜこの生物はこうなったのですか。この質問がダーウィンは大嫌い。ダーウィンが好きなのは、「いかに(HOW)」という質問です。ダーウィンは「{変化を伴う由来}」と言っている。つまり、遺伝子の突然変異と自然選択。その本質は、まさにオートポイエティックです。放っておけば、勝手に形を成す。そして、環境圧や個体間の競争圧、あるいは食う=食われるの圧力によって方向性が定まっていくわけです。

進化において方向性を決める決定者を、生物学の世界では{デザイナー}と呼んでいます。進化のデザイナー、つまり神のようなものがいて、それが形を決めると考えていた時代がありました。でも、デザイナー論は今、否定されています。生態学には{極相}という考え方もあって、生態系が安定した最終的な状態という意味です。20世紀に流行した考え方ですが、今は一切やめています。常に変化していて、どこへ行き着くかはわからない。目的もなければ、予測も不能です。だから人間が入ってくるのも、変化のひとつのポイントですよね。ガラパゴスの生態系は今後どうなるか、誰にもわからないんです。

デザイナー こういう場所に来ると、人間が為すことを否定的に考えがちですが、僕らはやっぱり人間だし、希望を持ちたい気もするんです。人間は愚かだし、先が短いかもしれないと感じます。しかし人間には本当に可能性がないんでしょうか。人間は、脳を肥大させていくことで特徴的な動物になって、いつもせっかちに考えている。そして、{「私」というものを発見してしまった}。でも自然界には「私」なんてものはなくて、生命は全部連続している。人間だけが「私」というものをぽつんと作って孤立している気がするんです。

生物学者 また進化論の話をしますが。ダーウィンが泣いて喜びそうな話があります。それは、われわれは遺伝子の乗り物であるということ。遺伝子がご主人さまで、この体は世代から世代へ遺伝子を送り届ける乗り物にすぎないという、いわゆる{「利己的な遺伝子」}という考え方です。そんなふうに遺伝子中心で考えるとわかりやすい。まさに、個体とは何なのか。遺伝子の乗り物たる「私」に意識が宿ってしまったら、どちらが主人なのかということになる。

遺伝子は絶対に死なないんですよ。人間の細胞で言うと、卵細胞だけが脈々と伝わります。でも、それ以外はみんな滅びる。それは宿命です。ただ、やはり堆積は大事だと思います。いろいろなものをクリアランスしないで、積み重ねていく。過去の堆積物は、未来の変動や不安定要因に対して、解決法を見出す宝箱のようなもの。人間だってそうです。人間の遺伝子、{ゲノム}は、進化の堆積物なんです。生物としての人間で悩むのであれば、ゲノムに立ち返れば、必ずそこに答えはある。ただ、今、デザイナーがおっしゃっているのは、生物としてではなく、文化としての人間ですよね。では、文化としての人間の堆積物はどこにあるのかという話になると思います。

イグアナは、
進化の途上で
果敢に生きている。

デザイナー 写真家は、イグアナをずいぶん撮られていましたよね。来る前には、{ゾウガメ}がこの島の主のように感じていましたが、実際に来てみると、イグアナの印象が強かった気がします。

写真家 僕もイグアナには感じるものがありました。{リクイグアナ}は個体でいることが多くて、昨日は林の中で静かに横たわっていて。僕にはかなり神々しく見えました。かたや{ウミイグアナ}は群れをなして、折り重なるようにいる。普通、あそこまで同じ生き物がたくさんいると、気持ち悪いと感じそうなものですが、一切感じなかった。何か、命の塊がたくさんいるような感じがしました。なおかつ、風景の中に溶け込んでいて、遠景の火山と彼らが寝ている岩の全部を含めて、張っている感じがしましたね。

デザイナー ゾウガメってたぶん、防衛力の強い生き物だと思うんです。いろいろな生き物が漂着したのだと思いますが、その中で、どんな環境でもなんとかなったのがゾウガメなのではないかと。イグアナは、食べ物がないので海に潜って海藻を食べて生き残るなど、能動的に自分の形を作っている感じがしました。風景とイグアナは、ほとんど同化していましたよね。

写真家 そうですよね。体の表面も、火山の色やディテールと似ていて、石の上に寝転がっていると見分けがつかない。あれはなぜなんでしょうか。

生物学者 偶然だと思います。あの岩は{玄武岩}だから黒くて、彼らは色が黒いほうが早く体温が上がるので、よりよく生存し、繁殖した。ウミイグアナに関しては、まだ進化の途上なので、これが最終的な解ではありません。もしかしたら、白いウミイグアナが出てくるかもしれない。今言ったのは、人知の及ぶ範囲の話で、予測はできないので。ウミイグアナは、あの不完全な形態で、果敢に海に乗り出していて。僕は、われわれの祖先が粗末な船で海に乗り出していったことを彷彿としました。

デザイナー ウミイグアナが海藻を食べているのを見たのですが、浅いところにも十分あるんです。潮が引けば、干潮時には食べられる。でも、わざわざ深いところに潜って食べているというのは、説明がつかないですよね。果敢です。

生物学者 説明がつかないですね。イグアナに聞いてもわからないですもんね。

写真家 しかし、僕は本当に、この風景や環境の中にいるとわくわくします。それは初めて見たからじゃない、何か期待していた地球の姿を見ることができた感じがするんです。

デザイナー それは、生命に対するときめきの感情なんでしょうね。比喩的な言い方ですが、宇宙という、自分を含む大きなものがあって、その宇宙から私に打ち寄せて来る波があって。そして、私の中にある生というものから、宇宙に打ち返す波があるということを感じます。デザインをするとか形を成すというのは、その波打ち際みたいなところが舞台になります。作為を凝らしすぎると、砂浜を汚す感じがするので、波の寄せ引きの力を自然に利用して形を成していくのです。ガラパゴスというのは、そういう宇宙から生命に打ち寄せてくる波と、地球の生命が宇宙に返す波の、まさに波打ち際みたいな場所。それが具体的な環境として出現しているところに、感じるものがありました。

ガラパゴスは、
変化を続ける
エネルギーに満ちている。

デザイナー 写真家は今回、ずいぶん写真を撮りましたよね。この土地が、写真家の仕事をやめさせない感じでした。

写真家 あんなに夢中になって撮ったのは珍しいです。もうこれ以上見せないでというくらい。飽きるということが全くない。すごくそそられて、怖くなるほど。写真が写したがっているものがそのままあるという感じです。目さえ開いていれば、解釈を一切排除して、ただ写すことができてしまうことに驚きました。この撮らせる力というのは何なのか。ここでは、できる雲の色や形までちょっと違う。真っ昼間なのに、雲が紫色をしていたりするんです。

生物学者 僕は、ガラパゴスは容れ物だと思っていて。空っぽの容器に生き物をぽんと置いて、さあ、勝手に進化しなさいと。そうしたら、いろいろなものが出てきた。では、もうひとつ容器を準備したら、同じような進化が起こるのかと考える。でも、ガラパゴスはすでに、ひとつの容器の中にいくつものガラパゴスが入っているようなものなんです。ここは常に変化していて、終わりがない。この瞬間も、これまでいた生物が絶滅したり、新しい生物が移入したりしているかもしれない。次から次へと新しいものを作り出していて、決して完成しない。今、まさに生み出しているというのは、やはり緊張感があります。

写真家 完成形だと、エネルギーを感じないかもしれませんよね。変化をし続けているので、そのエネルギーを受け取れるんだと思います。

デザイナー 生命の弾み車が、ずっと回り続けているような場所なんでしょうね。自分で作り出すのではなく、できてしまうということを誘い込むのが一番パワフルだと思います。今回ガラパゴスに来て、そういう生命の弾み車が回っている、リズムというか張りというか、そういうものに非常に触発されました。写真家の写真に触れる人たちがそんなふうに感じてくれるといいですね。

写真家 写真というのは不思議なもので、撮った人間の考えや意図したことが、全部写ってしまうんですよ。見る人が、僕が経験したことをそのまま、同じ道をたどって見ることができると信じています。僕は今回に限らずそうしているつもりですが、ただ見つめるというか。そうして{大脳新皮質}の奥の魂のありかで、撮っているのではなくて、撮らされているという感覚。それが伝わるといいなと思います。

自然と人為の
波打ち際にある幸せ。

デザイナー 今回は、広告という一方的なメッセージではなく、体験の共有ができたらと思っています。企業というのは、未知なる体験を先駆けて行っていくのがいいと思うんです。変わったチャレンジだと思いますが、今後の企業と生活者の対話の形として、体験を共有しながら、ある価値を一緒につかんでいく。製品を作って売ることだけでなく、幸せの行方を一緒に考えていくようなことが、企業の表現の可能性としてあるのではないかと思うんです。

生物学者 企業も生き物として捉えれば、企業の進化論を考えることができます。そのとき、目的や方向性はひとつしかない、それは幸せです。イグアナも人間も企業も。たぶん21世紀の科学において、幸せは一番大切なテーマです。みんなで幸せになろうというのが、21世紀の総合科学の目的なんですよ。企業も率先して幸せを求めていっていいのではないかと思います。

デザイナー 幸せとは何かというのを、最近よく考えるのです。僕は幸せというのは、生きていることを発露することだと思います。さっき掃除の話をしたでしょう。人間って掃除する生き物です。はじめは、人間は必ず環境を汚してしまうので、その呵責に対する始末として掃除をしているのかなと思っていたんです。でも、掃除というのは人のためにするものではなくて、自分が生きていくためにしている感じもします。つまり、自分の生をいきいきと輝かせる表現として掃除をするのかなとも思うんです。

自然というのは{カオス}、混沌の泥沼にいろいろなものを引きずり込むわけですから、{エントロピー}が増大する方向に向かう。人間がせっかく家を建てて、畳を敷いて、障子を張っても、外からちりが入ってきて、人間が動くと服の繊維が散って、埃として家の中に堆積していく。それがもっと堆積すると土になって、種が飛んできて、発芽して、木造家屋なんて30年も放っておくと、自然に返ってしまうわけです。自然という底なし沼に引っ張られているという脅威があって。それにあらがって、意志的なものを屹立しようというイメージが、人間が生きていくことの中にあるんだろうなと。だから結構、人間の幸せと掃除というのはつながっている気がして。

写真家 庭掃除をしていても、たまたま生えた植物をきれいだなって思うじゃないですか。でもそれを許すと、2、3年経つとそれが本来の境界線を越えてきて、一瞬脅威に思う。やはりここは縁を切って、排除する。そうすると、心地いいんですよね。自分のテリトリーをはっきりさせることができる。でも、許していくと、どんどん取り込まれてしまって、結局居場所がなくなってしまうということが起こります。

生物学者 植物、怖いです。

デザイナー 庭というのは象徴的で、まさに自然と人為の波打ち際です。人間がこうしたいという意識で庭を作るんだけど、自然はそうさせまいとして、はみ出してくる。一方で、人為がまさりすぎると野暮になるので、自然のままに任せるのですが、植物は遠慮なくどんどん攻めてきます。そのせめぎ合いが庭なんです。伝統的な庭園が長く保たれているのは不思議なことで、当然、松の木も成長するので、常に変化しているわけですが、最初に庭を作った人の意図を後の人が理解して、維持するという意志が働き続けないと、100年を超えるような庭は成立しません。そのせめぎ合いに見所がある。自然と人為のせめぎ合いを100年続けてきた、その痕跡に感動するんだと思うんです。

生物学者 カオスという言葉ですが、デザイナーの言っているカオスはおそらく、科学で言うと「{ランダム}」です。「カオス」は「ランダム」と「{ハーモニー}」の中間なんですよ。まさに、カオスはせめぎ合いの場だと思います。オートポイエーシスの場ですね。まさに波打ち際で、寄せては返しながら形を作っていく。

デザイナー そしてそれはいつも美しい。自然というのは「湧き出すもの」だと思います。カオスの力があって、溶岩やイグアナが湧き出してくる。湧き出すものを抑制する力ももちろん働いていて、そのバランスが張りなんだと思います。庭にも張りがある。そう考えると、やはり人が考えることも自然の営みの一環で、庭みたいにやればいいじゃないかと思ったりして。そんなふうに、自分の関与が自然をいきいきさせている実感があるときは、すごく幸せですよね。湧き出すものと、それを制御しようとする意志がせめぎ合って、張りを作っている。今回は、そういうひとつのお手本を見た感じでしょうか。