Café&Meal_MUJIホテルメトロポリタン鎌倉

【Café&Meal MUJI 鎌倉】790年前の住人 その2

【Café&Meal MUJI 鎌倉】

イベント・地域情報/地域情報

2022/07/26

みなさんこんにちは。
当店「Cafe & Meal  MUJI ホテルメトロポリタン鎌倉」が今ある場所は、過去どのような風景だったのかを探るコーナー、鎌倉時代の鎌倉編の3回目です。
 
前回、当店の付近「小町口」に「藤内定員」という人物が住んでいたようだという記事を書きました。
この定員さん、どんな人だったのでしょうか。
 
 
まず名前の読み方ですが、資料によって様々あり、わかりませんでした。
 
読み方がわからない場合、音読みすることが多いそうなので、
 
トウナイ テイイン
 
と仮に読んでみてください。
 
 
さてこの藤内定員ですが、生没年不明、あまり多くの資料は残っていません。
主に登場する資料は、鎌倉時代の公的な日記とも言われる『吾妻鏡』です。
 
 
源頼朝が築いたはじめての武家政権である鎌倉幕府は、3代将軍源実朝の突然の死去により、次期将軍を京都から迎えることになります。
 
実子のいなかった実朝のために後継者探しは以前から行われていたようですが、最終的に白羽の矢が立ったのは、源頼朝の遠い血縁である「九条頼経」。
 
当時まだ1歳半(数えで2歳)の赤ちゃんだった九条頼経は、将来の鎌倉幕府4代将軍となるために京都から鎌倉へ迎えられます。
おそらく2週間ほどかけての赤ちゃん連れの旅。想像するだけで大変そうです。
この時に藤内定員も頼経に付き添って鎌倉へやって来たようです。
 
【Café&Meal MUJI 鎌倉】
 
鎌倉では北条義時の邸内に作られた仮御所で育てられ、やがて頼経は元服し、わずか9歳で将軍となります。
頼経が将軍になってすぐに、将軍の御所でもある幕府の場所も改められ、当店すぐ北側の「宇都宮辻子幕府」に移されます。
 
【Café&Meal MUJI 鎌倉】

小町口の定員の家の屋根が飛ばされた頃の記述も幕府が宇都宮辻子にあった頃なので、かつて源頼朝の御所の周りに数多くの御家人が居を構えたように、定員もまた将軍に信頼された近臣として御所の近くに住んでいたのかもしれません。
 
定員は頼経将軍のもと、様々な行事のメンバーに名を連ねたり、仕事を命じられたりした様子が吾妻鏡からわかります。
将軍を守るための陰陽師による様々な行事を取り仕切ったり、鶴岡八幡宮の流鏑馬の諸役を務めたり。
時には頼経将軍と歌会で歌を詠んだり、雑談をしたり。
定員は頼経の近臣として信頼され、かなり近い距離で活躍していたようです。
 
また関白や摂政として京都の実権を握っていた頼経の父・九条道長にも信頼を得ていたようで、たびたび鎌倉と京都を往復し、道長への報告や連絡をおこなっています。
 
1年の間に3回も往復していた時期もあり、鎌倉の中では京都出張のプロとも呼べる存在だったのではないでしょうか。
現代では新幹線で数時間で行ける距離ですが、馬で行っても片道10日くらいはかかる道のり。今の海外出張よりもハードかもしれません。
 
将軍の側近としての仕事も、長距離出張も、プライベートのお付き合いもできる、「吾妻鏡」からはそんな定員の姿が読み取れます。
 
 
さて、将軍頼経は成長とともに自ら政治を行う意思を強くし、まだ幼い息子の九条頼嗣に将軍職を譲った後も鎌倉に留まり、「大殿」と呼ばれ依然として大きな影響力がありました。
 
そしてやがて執権である北条氏と対立するようになり、ついには鎌倉を追われることとなります。
 
頼経の近臣であった藤内定員もまた、この頼経失脚とともに吾妻鏡の記録からも姿を消してしまいます。
 
 
4代目の鎌倉殿とともに史料に登場し、そして消えて行った790年前の住人、藤内定員。
 
実は吾妻鏡には定員の家族も登場しています。
 
次回は定員の家族についても書いてみたいと思います。
【Café&Meal MUJI 鎌倉】
 
最後まで読んでいただきありがとうございました。
 
 
《参考にした本》
『現代語訳 吾妻鏡10』五味文彦 本郷和人 西田友広編 株式会社吉川弘文館 2011年

『若宮大路周辺遺跡群(No.242)発掘調査報告書』
株式会社斉藤建設 埋蔵文化財調査部編 神奈川県・鎌倉市 2018年
 
 
本日のおたより カルベ
 
 
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 
お店からのおすすめ情報や地域のおたより、配信中です。
 
フォローや投稿記事への「いいね」を宜しくお願いします。
 
(右上のハートマークをタップしてください。)
 
Café&MealMUJIホテルメトロポリタン鎌倉
 
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇