福岡県南部の筑後地方には九州最大といわれる筑後川が流れ、豊かな土壌と豊富でキレイな水が、絣の生産に適していました。そして、明治の西南戦争で全国から集まった兵士が国元へ帰る際に、お土産として久留米絣を持ち帰ったことで、全国にその名が知られるようになったといいます。
久留米で語られている歴史だと、久留米絣は偶然の発見から始まったといわれているそう。「200年以上前に一人の少女が自分の藍色の服にあった白いシミに気付き、糸をほどいて、そこから独自の絣の図案を考え広めたと。女性の社会進出に寄与したともいわれていて、ロマンがありますよね」そう専務の野口英樹さんは話します。
そんな久留米絣は、図案製作、括り(くくり)、染色、織りなど大まかに分けても30の工程があり、分業制でそのすべてが重要です。久留米絣の命ともいわれる糸の括り作業は、昔は職人の手によって行われていましたが、現在は機械によって生み出されています。しっかりと糸で縛ることで、その部分が防染され、織った際に美しい文様を表現できるのです。
また、絣の文様がきちんと出るように経糸をそろえる「荒巻」という作業も、絣の完成度を決める大切な作業。そして、カシャンカシャンと活気のよい音を立てながら年季の入った織機が忙しく動いて、経糸840本と緯糸240本が1枚の絣を生み出します。
「量産できるわけではないから、日々技術の進歩を心掛けていくことが、後世へものづくりを残すことにつながると思っています」そう話す生産者の言葉が産地の強さを物語っているようです。