就農を決意したのは、松太郎さんが高校生の時。
高校卒業を間近に控え、自分自身の進路に思い悩んでいた時に、母のユキさんがかけた一言にきっかけにありました。「お父さんは松太郎と一緒にいちごを作りたいんだよ。」
元々、農家の長男に生まれ、いずれは農業をやらないといけないという気持ちはありましたが、母の言葉が背中を押し、福島県立農業短期大学校への進学を決意しました。
短大卒業後は、いちごの一大産地である栃木県の三上光一氏の下で住み込み修行を経験しました。
この修業時代に、三上氏に勧められ、ある一冊の本と出会います。「その本の一節に「情熱を持って仕事をすれば、情熱を持っている人が必ずついてきてくれる。」という言葉がありました。この言葉こそが、私に夢を与え、私を突き動かす原動力となったのです。」と松太郎さんはいいます。
栃木県の技術と父の技術を掛け合わせ、日々美味しいいちごについて考え、食べた方の笑顔を想像し栽培に取り組み続けています。
就農して2~3年も過ぎると「ケンカするほど仲がいい」ということわざがあるように、父の松夫さんとは毎日いちごの事でケンカしたり、お互いに納得するまで話し合ったりしながら、美味しいいちごを追求してきました。
お客様に直接笑顔を届けるため、いちごの直売を始めた矢先、わずか二ヵ月後に東日本大震災が起きました。
震災直後に原発の爆発事故が起き、福島県の作物は風評被害で苦しみました。美味しいいちごを生産しても誰も食べない、買わない、笑顔なんて到底ない。この現実に心から悲しさと悔しさを感じたといいます。
そんな時、たまたま通りかかった浜通りからの避難者がトイレを借りにきました。家族で着の身着のまま避難をしてきて、飲まず食わずだったことを聞き、母のユキさんと妻の由貴子さんがおにぎりの炊き出しと収穫してきたいちごを配りました。
それから3年後、避難者が我が園に訪れ、「あの時は本当にありがとうございました。」と涙ながらに感謝されたそうです。「一人一粒くらいしかいちごを食べられなかったけれど、みんな嬉しそうに食べてくれたこと、また、中には泣きながらいちごを食べていた方もいらしたという話を聞いて、私は素直に喜びを感じました。」と当時の様子を語ります。
「いちごから笑顔」笑顔の中には、ひとりひとりのドラマがある。そのことをもう一度再認識した松太郎さん。
「起きてしまったことを変えることはできませんが、ピンチをチャンスに変えることはできます。今だからこそ攻めの農業をしないといけない、そして、もっと多くの方に自分のできる「いちごから笑顔」を届けたい。」という強い思いで、いちごを大切に作り続けています。