あとからくるひとのために
傷つきが見えにくい今だからこそ、弱さをもっと尊重し合いたい

2025/12/15
イラスト・三好愛 取材と文・編集部
みやじ・なおこ。一橋大学大学院社会学研究科特任教授。専門は文化精神医学・医療人類学・トラウマとジェンダー。精神科の医師として臨床を行いつつ研究を続けている。著書に『トラウマ』(岩波新書)、『ははがうまれる』(福音館書店)、『環状島= トラウマの地政学』(みすず書房)、『傷を愛せるか』(ちくま文庫)、『傷つきのこころ学』(NHK出版)など。
技術は発展しても、“人間の基本”は変わらない
——「あとからくる人のために」という言葉から、宮地さんはどんなことを考えましたか?
宮地尚子さん(以下、宮地):「どんなことでも7世代先のことを考えて決めなくてはならない」というアメリカ先住民のイロコイ族の教えを思い出すと同時に、AI技術が急激に進化している今、私たちはどんな社会を残していけばいいのか、ちゃんと考えないとなと思いました。
自分の子どもや大学で教えている学生たち、さらにその先の世代の人たちが生きやすくなるために今できることって何だろうと。
——ここ数年でAI技術はとても身近になりましたよね。
宮地:ただ、どれだけ技術が発達し、予測不可能な未来が待っていたとしても、身体や心といった“人間の基本”は、50年先、100年先も変わりません。
にもかかわらず、私たちは、進化しつづけるAIと同じように、人間も変化に適応し続け、あらゆるものをコントロールできる万能感を抱いている部分がありますよね。
でも実際は、変化し続ける社会で、取り残されないようがんばることに疲れている人も多いはず。
今や暮らしに欠かせないパソコンやスマートフォンにしても、本来、人間の目は近くを凝視するようにできていないし、長時間同じ姿勢というのは不自然なので、使い続けると、目も肩も腰も痛くなりますよね……。常に多くの情報に晒され続けていたら脳も休まりません。
だからこそ、今一度、“人間の基本”をどうやって大切にしていくかを考えたほうがいい。意識的に休む。体が心地良い状態を確保する。単純だけれどそういったことが大事なんじゃないかなって思うんです。
——休むことは、ともすればサボりや怠惰といったネガティブ印象と結びついてしまうので、その価値を改めて考えたいです。
宮地:私は隙あらば寝転ぶというのを実践していて、最近もフィールドワークに行ったとき、途中で10分ほど寝転ぶ時間をつくったら、みんな幸せそうで(笑)。
寝転ぶと見える世界が変わり、視野も広がりますよね。空が見えたり、木の枝が見えたり。

私たちはつらいとき、苦しいとき、悩みが全画面表示になった状態で世界を捉えてしまいがちですが、寝転ぶことで、それだけが世界のすべてではないことに気づけたり、違った角度からものごとを捉えるきっかけになる。もちろん、身体的にも楽ですし。
でも、寝転がっていると、他の人からはそれこそ怠けていたり、病気だと思われたりして、実際に「調子が悪いんですか?」と聞かれたことも。
何か明確な理由がないと、休んではいけないような社会規範がありますよね。街にあるベンチも、“排除ベンチ”と言われるように、寝転んだり、長時間座れないように、あえて突起やバーが付いているものを目にします。
もっとみんなが気軽に“楽”になれる世の中に変わっていったらいいなと思います。
誰もが弱さを抱えていることに気づき、認め合う
——身体の心地よさを大切にするって当たり前のようで、ついつい置き去りにしがちかもしれません。
宮地:今の技術革新の多くは、身体の制限から“どれだけ自由になれるか”に向かっていますよね。時間や空間を超えて、いつでも・どこでも・誰とでもつながれるような“便利さ”が重視されているように思います。
もちろん、身体に障がいのある方がコミュニケーションをとりやすくなるなど、ポジティブな側面もたくさんあります。と同時に、身体を無視してしまっている部分があるのではないでしょうか。
——ある意味、身体という物理的な制限が、私たちを守ってくれていた側面もありますよね。
宮地:技術の発展で、これまではできなかった速度でいろいろなことができるようになりました。
一つ終わったら、また次と言われたり、自分自身でもプレッシャーをかけ続けてしまい、何かを早く終わらせても、ぼーっとする時間が増えるわけではない。
——“コスパ”、“タイパ”という概念も一般的になりました。
宮地:速く、効率よく、という流れにどうやったら歯止めをかけられるのか考えています。社会の変化に対して、“人間の基本”である身体や心が置き去りになって、乖離してしまっている。
本来、人間は何か大きな出来事、変化があれば、ショックを受けて、そこからゆっくり回復する時間が必要です。でも、今の社会ではそれが配慮されていません。
人間は機械ではないので、次々と頭を切り替えられないのが当たり前なのに、それができないと、社会に適応できない人、と思われてしまうから、がんばり続けなくてはいけないという圧が積み重なっていく。
ある意味、今の社会は、心身が丈夫で、不調に敏感ではない、“強い”人基準で設計されているといえます。
——“強く”見える人、適応しているように見える人も、実は目に見えないところで傷ついているというのもありますよね。
宮地:自分も精一杯なのに、他の人を気遣う余裕がない。溜まった傷つきや不安が外への攻撃に向かっているような気がします。
北海道浦河町には、精神疾患を抱えた当事者の地域活動拠点となっている生活共同体「べてるの家」があります。「べてるの家」の活動の中心は話し合いで、その中で「弱さの情報公開」が大切にされています。
弱さを隠すのではなく、誰もが弱さを抱えていることに気づき、お互いの弱さを認め合ったり、かばい合ったりすることでコミュニティがやさしく、包容力のあるものに変わっていく。
今の社会にこそ、この「弱さの情報公開」による「弱さの循環」が必要なのではないでしょうか。
ケアが足りない今だからこそ
——近年は「ケア」という言葉を耳にする機会が増え、自分や他者への気遣いを大切にしようという流れが大きくなってきているように思います。
宮地:ケアという言葉がよく使われるようになっているのは、ケアが足りなくなってきているからなのかなと感じます。
「女性にケアを求めて当然」という価値観からシフトしてきて、本来は「みんなで互いをケアしましょう」という方へ向かうのが理想的だったのですが、今はどちらかというと「ケアを期待するのをやめましょう」という方へ向かっているような気がします。
また、人とのつながり方も複雑化していますよね。メールやLINE、SNSなどツールが増えたことで、相手によって、またはツールによって、距離感の使い分けが必要になったり、お互いの状況が目に見えないから、一つのメッセージでも解釈の幅が広く、探り合いをしてしまったり。
その結果、物理的な距離感と心理的な距離感がズレたり、必要以上に踏み込んでしまい、傷ついたり、他者を傷つけたり。それが嫌だから、いっそのこと全部から距離を置こうとして、孤独になってしまっている人は多いのかもしれません。
本当は孤独を感じているけれど、孤独と思われたくないから、スマートフォンを見てつながっている“フリ”をする。そんな印象も受けますね。

必要以上に距離を置くのではなく、ちょっと感情を出してみてもいいかも。どうしたら自分が心地よくなるかを考えると同時に、相手も心地いい状態であるかを考えてみる。そんなちょうどいい距離感の探り合いを練習していくことが、“ケアリングな関係性”をつくっていく鍵なのではないでしょうか。
——宮地さんの著書『傷を愛せるか』『傷のあわい』(いずれもちくま文庫)などが今、広く読まれているのは、どこか苦しさを感じている人が多いことの裏返しだと思います。それを次の別の優しい動きに変えていけたらいいですよね。
宮地:産業革命から今に至るまで、さまざまな大きな社会変化があり、そのたびに人々は「どうなっていくのだろう」という不安を感じていたと思うけれど、次の世代の人びとはそれなりに生きてきたので、今回だってきっと乗り越えられると思います。
でも、どんな人が乗り越えられ、どんな人が乗り越えられないのか。どんな人がその社会の中で発言権を持つのかによって、次に形作られる社会が変わってくるはず。
“人間の基本”が置き去りにされ、“強い”人を基準に社会が設計されつつある今だからこそ、身体への回帰がやっぱり大切なのかなと。
ささやかなことかもしれないけれど、ネット上で誰かとつながったり、商品やサービスを買ったりするときも、向こう側には、“ちゃんと傷つく”生身の人がいるということを意識する。気軽だから、安いからではなく、その先のリアルな存在を想像するだけでも変わってくるはず。
正直、私にも答えなんてないですが、やっぱりいろんな人と直接会って、声を出してお喋りするって大事だと思うんです。
情報をとるだけなら、ネットのほうがもちろん効率がいいです。でも、わざわざ会いに行って、声を出したり、声を聞くという、一見無駄や冗長に思えるようなことの中で、自分の気持ちや考えが見えてきたり、他者の心地よさを考えるきっかけにもなる。
他にも、歌ったり踊ったり。手仕事や手遊びとか、時代遅れと思われるようなものをあえて日常の中に復活させたり、そういう文化を意識的につくっていくことで、時代の流れが変わっていったらいいなと思います。
「MY FIRST MUJI〜思い出の品〜」
「私が無印良品を知ったのは、20年近く前に友人から無印良品のランタンをもらったとき。『“無印”なのにブランド?ってすごく不思議だな、おもしろいな』と思ったのが一番最初の記憶です。もらったランタンは、正直なことを言うと、飾り気がなくて当初はそこまでお気に入りではなかったのですが(笑)、長年使い続ける中で、余計な装飾がついていないけれど持ち運べて便利、というのはいいなと。海外の友人にも無印良品を愛用している人が結構いたり、実際に海外の店舗に足を運んだときに、日本と同じような商品が並んでいるのを見て、簡潔ゆえに、国を選ばないのが無印良品なのかなと感じましたね」
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