きくみるしる
「詩を読むことの豊かさを広めた人」 斎藤真理子が読む、茨木のり子 | MUJI BOOKS 「人と物」シリーズ

2026/08/26
第11回は『茨木のり子』。日常の営みから、胸の内を見通すような視線で日本の社会や女性の自立を見つめた詩を、リズムよく読みやすい言葉で書いた詩人。ハングルにも親しみ、翻訳を手がけた。朝鮮語の翻訳者で詩人でもある斎藤真理子さんと、昭和を象徴する詩人の歩いた道を並走する。
(取材と文・綿貫あかね 撮影・田上浩一)
さいとう・まりこ 1960年、新潟市生まれ。翻訳者。著書に『「なむ」の来歴』『増補新版 韓国文学の中心にあるもの』(ともにイースト・プレス)、『本の栞にぶら下がる』(岩波書店)、『隣の国の人々と出会う:韓国語と日本語のあいだ』(創元社)、共著に『言葉の森のかくれんぼ』(岩波書店)、『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社)、訳書にハン・ガン『私の女の実』『別れを告げない』(ともに白水社)、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(ちくま文庫)、チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』(河出文庫)ほか多数。
出会ったものに恩返しをしていく、優れた学級委員のような人生

いばらぎ・のりこ 1926年大阪生まれ。医師だった父親の転勤により愛知県西尾町(現・西尾市)で育つ。1943年に帝国女子医学薬学専門学校(現・東邦大学)薬学部に入学するも戦争により学業中断、19歳で終戦を迎える。1949年結婚。20代から戯曲や童話、詩を書き始め、1953年に川崎洋と同人詩誌『

愛用品をカラー写真で紹介する冒頭の「くらしの形見」では、カラフルな木版染めの手織り布で作られたコースターや、スペインの白釉薬のピッチャーと、どれも日常的だけれど選び抜いた目を感じる生活用品を掲載。1955年の『対話』、1958年の『見えない配達夫』などの初期の詩集や、1992年の『食卓に珈琲の匂い流れ』から、暮らしと近しい詩をセレクトしている。「美しい言葉とは」「ものに会う ひとに会う」の2本のエッセイも収録。
わからなくても佇まいがよかった、茨木のり子の詩
斎藤真理子さんは朝鮮語の翻訳者として広く知られているが、著書『「なむ」の来歴』のあとがきに「自分が韓国でだけ詩人であるという状況を楽しんでいる」と記しているとおり、朝鮮語でも、そして実は日本語でも詩集を出版している。詩と朝鮮語と日本語。三つの要素を並べてみると、同じ共通点を持つ昭和を代表する詩人、茨木のり子を思い浮かべずにはいられない。そして斎藤さんは早いうちから茨木の詩の熱心な読者だった。
「小学4年生のときに、当時の子供の多くが定期購読していた『学習』という雑誌に、茨木さんの詩『女の子のマーチ』が載っていました。女の子は暴れちゃいけない、と言われるのが嫌でしょうがない活発な子が出てくる詩で、魚をきれいに食べないとお嫁に行っても返されるとおばあちゃんにお小言をもらうんですが、『お嫁になんか行かないから 魚の骸骨みたくない』と言い返す。その言葉のリズムが七五調でとてもよかった。それが茨木さんの詩に触れた最初の印象です」
そのときは作者名をまるで覚えておらず、その後何かのきっかけであの詩を書いたのが茨木のり子という詩人だと知り、中学2年生のときに現代詩文庫のシリーズ『茨木のり子詩集』(思潮社)を買い求めた。
「たぶんわたしがお小遣いで最初に買った詩の本です。まだ理解できない言葉があったけれど、ひとつの詩の中で1、2行、すごくいいなと感じるところがある。わからなくても、何だか佇まいがよかったんです」

戦後の民主主義社会で、学級委員的な役割を背負わされた
初期の茨木作品が好きだという斎藤さんが、いちばん気に入っている詩は「根府川の海」(第一詩集『対話』所収)。『茨木のり子』には未収録なのが残念だが、今回初めて手にしたこの文庫本について、詩のセレクトの仕方が独特だと話す。
「詩の選び方や並べ方が他にはない印象です。とくに最初の章が『くだものたち』(P15)という、暮らしに身近でなにげない詩から入るところがいいですね。茨木さんというと『わたしが一番きれいだったとき』(P46)のイメージが強く、生活者の反戦思想や女性の自立を表すような作品から入るのが王道です。でもあまりにもそれが定番になっているのも気になって。そうではない詩から入る選択肢があってもいいと思います」


代表作の「わたしが一番きれいだったとき」や「自分の感受性くらい」(P60)「
「そういった詩が大勢の人から愛されるのはよくわかります。“現代詩の長女”と呼ばれて、戦後の日本の民主主義社会にとって非常に重要な詩人だったのは言うまでもありません。日本では戦後が遠くなるにつれ本当に詩が読まれなくなって、一般的に詩人は谷川俊太郎さんと茨木さん、そして石垣りんさんがいればいいというような状態が何十年も続きました。でもそれ自体がとても社会が貧しくなった証拠なんですね。茨木さんはもともとが学級委員のような人で、いろいろなものを背負わされていたし、本人もわかっていてその役割を引き受けるしかなかったところがあると思う。そう考えると、これらの代表作には茨木さんらしさが息づいているとも言えます。戦後の輝きを浴びて、その役割を照れずにやり遂げた。本当に偉いなと思います」



“自由詩”と“自由”をどう自分たちのものにするかが出発点
実は、戦争が終わって茨木が最初に志したのは劇作家であり、詩はそのために書き始めたのだという。演劇も詩も、社会の変革期の先頭に立つもの。だから茨木の目指すものは、新しい日本社会を作る時代に非常にマッチしていた。
「この本に載っている『汲む――Y・Yに――』(P43)という詩。これはひとりの女性が若いときに出会ったある女の人のことを、ずっと後になって思い返すというものですが、詩に流れるストーリーの組み立てがとても上手。このように茨木さんの詩には、一編の中にドラマのあるものが多く、劇作家志望だったというのも頷けます」
そう話す斎藤さんは『茨木のり子集 言の葉1』(ちくま文庫)に掲載されている、茨木が20代で書いたラジオドラマ「埴輪」の台本について教えてくれた。

「この作品には、日本の植民地主義への強い批判や、言葉への鋭い感覚など、茨木さんのすべてが詰まっているように思いました。終盤で『自由、自由という日本語、なんてゴロが悪いんだ』という、ある青年のセリフがあります。日本の短歌や俳句など、アジアには長い定型詩の歴史があります。しかし西洋から伝わってきたいわゆる現代詩のような自由詩は、完全に自分たちのものになりきらないまま歴史が進んできました。自由という言葉も翻訳語だから、同様に自分たちのものになりきらない。借り物かもしれない言葉にどう陰影をつけていくか。20代の茨木さんはそこを出発点にしていたと思います」
50歳でハングルを学び、64歳で韓国の詩を翻訳し日本に紹介する
30代で「わたしが一番きれいだったとき」などの詩が評価され、日本を代表する詩人のひとりとなった茨木。50歳で突然ハングルを学び始めた。
「わたしは1980年から大学のサークルで朝鮮語の勉強を始めましたが、当時は大学の第二外国語で朝鮮語を選択できるところがわずかでした。その頃の韓国は軍事独裁政権で、光州事件など恐ろしいことがどんどん起きているイメージで、カルチャーも入ってこない。そういう時代が長く続いていたときに、現代詩のトップアイドルである茨木さんが、朝日カルチャーセンターで朝鮮語を習っている……。そんなうわさをどこかから聞いて驚いたのを覚えています」
茨木はエッセイ集『ハングルへの旅【新装版】』(朝日文庫)で、ハングルを学び始めた動機を聞かれたときは「『隣の国のことばですもの』と言うことにしている」と書いている。

「好きな詩人が朝鮮語を習っている。それはわたしにとっても大きな出来事で非常に嬉しく思っていたところ、1990年に茨木さんが翻訳をして編まれた『韓国現代詩選』が出版されたんです。韓国の詩人の作品を選んで翻訳したアンソロジーの詩集ですが、どうしてこの詩人や作品を選んだのかがとても興味深い。というのも、韓国の人であればまずこのようなセレクトにはなりません。だから『茨木のり子』の78ページの本棚の写真で、どんなハングルの本があるのか、誰の詩集が並んでいるのか、ルーペをかざして背表紙をじーっと見てしまいました。全部は読み取れませんでしたが、『韓国現代詩選』でも取り上げている黄東奎(ファン・ドンギュ)の詩集なども見え、ここからあの訳詩集が生まれたんだなと感慨深いですね」

自由がなかった時代に、投獄されるほどの激しさで自由を歌ったり、または検閲をかいくぐるために難解な技巧で武装したりした韓国の詩。しかしその本で茨木が選んだのは、あまり厳しさがなく、リーダブルでほっとするような詩だった。
「2022年に再版された『韓国現代詩選<新版>』(亜紀書房)の解説に書いたのですが、茨木さんの翻訳はすさまじくて、ある詩の最後の1連をそのまま削ってしまっています。それは訳者として、さすがに破天荒すぎますが、そこまでしてでも、自分の日本語で、韓国の素晴らしい文化を日本人に伝えたかったのだと思います。詩人としての自信もあるから、自分が責任を持って最後の1連をカットして翻訳した。勇気がありますよね」
121ページの「ものに会う ひとに会う」の章に出てくる、ソウルで燭台を買い、
「詩人の

日本でも再び詩が書かれ、読まれる時代になるかもしれない
「日本では詩を読む文化が目減りし、現代では俳句や短歌が盛んに詠まれています。でも近年は日本社会が激しく変わり、もっと身体そのものから出てくる声を出してしまいたいという気持ちから、詩を書き始める人が増えている気がします。だから詩の世界はこれからもっと広がると思う」
茨木が活動した戦後から平成にかけては、それなりに経済が回っていたことで、日本人は政治に無関心でも生きてこられた。しかし、令和の今は国民一人ひとりに負荷がかかり、世界で続いている戦争を止めるのにも何の役割も果たしていないことに、がっかりしている人の声も聞こえてくる。もしかすると日本では再び詩に親しむ人が増える時代になるかもしれない。
「人々の世の中への無念さや、忘れられない怒りを、枠のないところで言葉として出したい欲求がじわじわ高まっている気がします。社会や世界への想像力がかきたてられている時代」
斎藤さんの周囲でも詩を読んだり書いたりしはじめた人がいるし、小説家が改めて詩に接近することも。この状況はとても興味深い。
「詩への入り口は広いです。手当たり次第に読んでみて、この1編、この1行がいいなという人を見つける。そのためにはこの『茨木のり子』を開いてみるのもいいですし、いろいろな人の作品が集められたアンソロジーを読むことも近道。アンソロジーはいいなと思う詩人が見つかりやすいんです」
(注)「朝鮮語」と「韓国語」は同じ言語である。日本の学術界では、朝鮮半島を中心に使われている言語という観点で「朝鮮語」と呼ぶ。
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